文化の路としての瀬戸内海(万葉)
日本の国の始まりから、古事記・日本書紀の国生み神話や神武天皇の東征、神功皇后の三韓征伐等にみられるように、瀬戸内海の航路は交通路として重要な役割を担っていました。
また、7世紀頃、遣唐使や筑紫の大宰府に派遣された防人、あるいは瀬戸内海沿岸の国府に派遣された官人もこの内海を交通路としており、そのため、瀬戸内海の各所で、彼らにより、万葉集にみられるような多くの歌が詠まれました。
たとえば、山部赤人が詠んだ歌碑(和歌山下津港)、柿本人麻呂が詠んだ中の水門歌碑石碑(丸亀港)、人麻呂碑(坂出港)、大伴旅人が詠んだむろの木歌碑(福山港)、詠み人知らずの万葉の歌碑(牛窓港)等、港周辺に建てられている万葉の歌碑は、かつて往来していた万葉人を彷彿とさせます。また、姫路港の市川や船場河川口など、瀬戸内海には万葉集に詠まれた美しい風景も多く存在しています。
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和歌山下津港に建つ山部赤人歌碑 (和歌山県)
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坂出港に建つ柿本人麻呂歌碑 (香川県)
「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」(山部赤人 巻6・919)
「玉藻よし 讃岐の國は 國柄か 見れども飽かぬ 神柄か・・・」(柿本人麻呂 巻2・220)